量子情報の基本:ノークローニング定理・テンソル積・密度行列の対角成分

量子鍵配送の安全性、多量子ビット系の記述、そして「量子コンピュータの答えはどこから出てくるのか」。量子情報理論の3つの基礎概念を解説します。

ノークローニング定理とは何か

ノークローニング定理は、「未知の量子状態を、それを乱すことなく複製する 操作は存在しない」という、量子力学の基本的な帰結です。より正確には、任意の未知の状態 |ψ⟩に対して

U(|ψ⟩ ⊗ |0⟩) = |ψ⟩ ⊗ |ψ⟩

を満たすユニタリ演算子Uは存在しない、という主張です。

証明は簡潔です。もしこのようなUが2つの異なる状態|ψ⟩|φ⟩の両方に対して働くと仮定すると、

U(|ψ⟩⊗|0⟩) = |ψ⟩⊗|ψ⟩,  U(|φ⟩⊗|0⟩) = |φ⟩⊗|φ⟩

ユニタリ演算は内積を保存するため、両辺の内積を取ると

⟨ψ|φ⟩ = ⟨ψ|φ⟩²

という関係が得られます。この方程式を満たす⟨ψ|φ⟩0 (直交)または1(同一の状態)しかありません。つまり、任意の(直交でも同一でも ない)未知の状態を複製できる万能なUは存在しないことになります。

ノークローニング定理は、BB84による量子鍵配送の 安全性の根拠そのものです。盗聴者は、光子の状態を「こっそりコピーしてから、コピーの方だけを 測定する」ということができません。測定は必ず元の状態を乱すため、盗聴の痕跡は統計的に検出 されます。また、通常の誤り訂正符号のように「情報をそのまま複製して冗長化する」ことが量子 情報ではできないため、量子誤り訂正が エンタングルメントを用いた間接的な符号化に頼らざるを得ない理由でもあります。

テンソル積とエンタングルメントの関係

1つの量子ビットの状態は2次元のベクトル空間に属しますが、n個の量子ビットから なる系の状態空間は、各量子ビットの状態空間のテンソル積として構成され、 次元は2ⁿになります。2量子ビット系であれば、基底は |00⟩, |01⟩, |10⟩, |11⟩の4つです。

2量子ビットの一般的な状態は|ψ⟩ = Σ c_ij |i⟩⊗|j⟩と書けますが、これが

|ψ⟩ = (a|0⟩ + b|1⟩) ⊗ (c|0⟩ + d|1⟩)

のように、それぞれの量子ビット単独の状態のテンソル積として分解できる場合、 この状態を「積状態(product state)」または「分離可能(separable)」な状態と呼びます。 逆に、どうやってもこの形に分解できない状態がエンタングル状態(もつれ状態)です。

代表例であるベル状態(|00⟩ + |11⟩)/√2で確認してみましょう。これが (a|0⟩+b|1⟩)⊗(c|0⟩+d|1⟩) = ac|00⟩ + ad|01⟩ + bc|10⟩ + bd|11⟩の形に 分解できると仮定すると、係数を比較してad = 0かつbc = 0である 必要がありますが、同時にac = bd = 1/√2 ≠ 0でなければなりません。 ad=0a=0またはd=0を意味しますが、 どちらであってもacまたはbdのどちらかが0になってしまい矛盾します。 つまりベル状態は積状態に分解できず、エンタングルしていることが代数的に 証明できます。

この「テンソル積の形に分解できるかどうか」という代数的な条件が、 エンタングルメントスワップのような 量子通信プロトコルや、多くの量子アルゴリズムの土台になっています。

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量子計算の主役は対角成分

量子状態は、純粋状態だけでなく統計的な混合も表せる密度行列 ρで記述できます。計算基底で密度行列を書き下すと、

ρ = Σᵢⱼ ρᵢⱼ |i⟩⟨j|

という形になり、対角成分ρᵢᵢと非対角成分ρᵢⱼ(i≠j)は、 それぞれ全く異なる意味を持ちます。

対角成分 ρᵢᵢ基底状態|i⟩を測定する確率(ボルンの規則: P(i) = ⟨i|ρ|i⟩ = ρᵢᵢ)。「populations」とも呼ばれ、実際に観測できる量そのもの
非対角成分 ρᵢⱼ (i≠j)基底状態|i⟩|j⟩の間の量子的な位相関係(コヒーレンス)。それ自体は直接測定できないが、干渉現象を引き起こす
量子計算の「主役」が対角成分である理由: グローバーのアルゴリズムであれ ショアのアルゴリズムであれ、量子計算の過程で起きている重ね合わせ・エンタングルメント・ 干渉といった「量子らしい」操作は、すべて非対角成分(コヒーレンス)を巧みに操作する プロセスです。しかし最終的に測定して得られる答え――量子コンピュータから実際に取り出せる 唯一の情報――は、常に対角成分が与える確率分布に従います。つまり、 舞台裏で主役を演じているのは非対角成分の操作(振幅増幅・位相推定など)である一方、 観客(measurement)の前に実際に姿を現す「最終的な主役」は、対角成分が表す確率分布 そのものだ、という言い方ができます。

この構図はデコヒーレンス(環境との相互作用によって量子性が失われる現象)の 理解にも直結します。デコヒーレンスとは、まさに密度行列の非対角成分が時間とともに0へ 減衰していく過程であり、非対角成分が消えた密度行列は、対角成分だけが残った古典的な 確率混合と区別がつかなくなります。量子計算機の コヒーレンス時間が重要な性能指標とされるのは、この非対角成分をどれだけ長く保てるかが、 量子計算が「量子らしさ」を保っていられる時間そのものだからです。

まとめ

  • ノークローニング定理により、未知の量子状態を乱さず複製する操作は存在せず、これがQKDの安全性の根拠になっている
  • 多量子ビット系はテンソル積で記述され、積状態に分解できない状態がエンタングル状態である
  • 密度行列の対角成分は測定確率、非対角成分はコヒーレンス(干渉を引き起こす位相関係)を表す
  • 量子計算の測定結果は常に対角成分から得られ、非対角成分の操作はそこへ至るための過程である
  • デコヒーレンスは非対角成分が消えていく過程であり、量子計算機のコヒーレンス時間の重要性の根拠になっている

量子通信の実装を知る

ノークローニング定理が実際にどう安全性を支えているか、BB84の記事で解説しています。

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