数論と楕円曲線の話:ABC予想・スピロ予想と暗号の関係

「a + b = c」という中学生でも書ける式が、なぜ現代数論最大の未解決問題の1つになっているのか。楕円曲線を経由してABC予想とスピロ予想がつながる理由を追います。

本記事は前回の楕円曲線暗号の深い話の続編です。 暗号実装への直接の応用ではなく、楕円曲線が数論の未解決問題とどう結びついているかという 「基礎科学としての楕円曲線」を扱います。

ABC予想とは

互いに素な正の整数a, b, ca + b = cを満たすとします。 整数n根基(radical)rad(n)を、nを割り切る 相異なる素数すべての積と定義します(例: rad(72) = rad(2³·3²) = 2·3 = 6)。

ABC予想(Oesterlé, Masserが1985年頃に定式化)は、次のように主張します。

任意のε > 0に対して、c > rad(abc)^(1+ε)を満たす互いに素な組 (a, b, c)(a + b = c)は、有限個しか存在しない。

直感的に言えば、「a, b, cが多くの素因数の重複(平方数や立方数などの累乗因子)を 含んでいると、a + b = cという単純な等式はほとんど成り立たなくなる」という主張です。 rad(abc)a, b, cに含まれる素因数の「情報量」だけを数えたものなので、 この予想は「和の関係」と「積の構造(素因数分解)」という一見無関係な2つの性質の間に、 強い制約があることを述べています。

楕円曲線への橋渡し: Frey曲線

ABC予想と楕円曲線を結びつけるのが、Frey曲線という構成です。互いに素な整数 a, b, c(a + b = c)から、次の楕円曲線を作ります。

E_{a,b,c} : y² = x(x - a)(x + b)

この曲線の判別式はΔ = 16(abc)²という形になり、a, b, cの素因数分解の 情報がそのまま楕円曲線の判別式に刻み込まれます。一方、この曲線の導手(conductor) N(曲線が「悪い還元」を持つ素数の情報をまとめた不変量)は、rad(abc)に 近い値になることが知られています。つまり、

  • abcの素因数の「重複度」を含む情報 → 楕円曲線の判別式Δ
  • abcの素因数の「種類」だけの情報(重複度なし) → 楕円曲線の導手N

という対応が成り立っています。ABC予想が主張する「crad(abc)に比べて 大きくなりすぎない」という性質は、この楕円曲線の言葉に翻訳すると「判別式は導手に比べて 大きくなりすぎない」という性質に対応します。

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スピロ予想

この「判別式は導手に比べて大きくなりすぎない」という性質を、楕円曲線の言葉で直接定式化したのが スピロ予想(Szpiro予想、1981年頃)です。

任意のε > 0に対して、ある定数C_εが存在し、有理数体上の任意の 楕円曲線E(最小判別式Δ_E、導手N_E)について |Δ_E| ≤ C_ε · N_E^(6+ε)が成り立つ。

Frey曲線の構成を通じて、ABC予想とスピロ予想は本質的に同値であることが知られて います(Frey, Szpiro自身らによる)。つまり、整数の和と積の構造に関する素朴な予想(ABC予想)と、 楕円曲線という代数幾何的な対象の不変量に関する予想(スピロ予想)は、Frey曲線という橋を通じて 同一の主張の裏表になっているのです。

フェルマーの最終定理との関係

Frey曲線は、もともとフェルマーの最終定理(n ≥ 3のときx^n + y^n = z^nの 正の整数解が存在しない)を攻略するために考案されました。もし反例x^n + y^n = z^nが 存在すれば、それから作られるFrey曲線が「モジュラーではない」奇妙な楕円曲線になってしまうことを 示し、谷山・志村・ヴェイユ予想(すべての有理数体上の楕円曲線はモジュラーである)と矛盾する、 というのがWilesによる証明の骨格です。これはABC予想を経由しない、独立した証明経路 である点に注意してください。

一方でABC予想からも、(証明された定理としてではなく)漸近的な形でフェルマーの最終定理に類する 結果が従うことが知られています。ABC予想を仮定すると、十分大きなnに対して x^n + y^n = z^nの解が存在しないことが(有限個の例外を除いて)従う、という筋道です。 こちらはWilesの証明とは独立な、ABC予想という「より強い仮定」から芋づる式に得られる系という 位置づけになります。

望月新一氏によるIUT理論での証明の主張

ABC予想については、2012年に望月新一氏(京都大学数理解析研究所)が「宇宙際タイヒミュラー理論 (Inter-universal Teichmüller theory, IUT理論)」と呼ばれる、独自に構築した新しい枠組みによる 証明を発表しています。この一連の論文は2020年、同研究所(RIMS)発行の査読付き学術誌 Publications of the Research Institute for Mathematical Sciencesに掲載されました。 望月氏本人、および共同研究者の山下剛氏・Ivan Fesenko氏らは、IUT理論による証明はすでに完成した ものであるという立場を一貫して取っています。さらに、望月氏の枠組みを独立に検証したKirti Joshi氏 による「Final Report」も、一定の補完的な拡張を加えた上で証明を支持する結果を報告しています。

一方で、Peter Scholze氏とJakob Stix氏は2018年、証明の核心部分(いわゆる「不等式」を導出する 過程)に、修復不能とみられるギャップがあると指摘しました。この指摘への評価は、本記事執筆時点 (2026年9月)でも数論コミュニティの中で分かれています。RIMSへの掲載自体、望月氏が同誌の編集に 関与する立場にあったことから独立性を疑問視する声もあり、「京都では定理、それ以外の場所では 予想のまま」と評されることもあります。

つまり、ABC予想の証明を巡っては、望月氏側による「すでに証明済みである」という一貫した 立場と、Scholze氏・Stix氏らによる未解決のギャップの指摘という、 双方の主張が並存している状況です。本記事では、数論コミュニティ全体としての広範な合意には 至っていないという事実を踏まえつつ、望月氏側の主張の内容そのものも正確にお伝えするよう努めました。

まとめ

  • ABC予想は「a + b = c」という和の関係と、rad(abc)という積の構造情報の間の制約を述べる
  • Frey曲線という構成を通じて、整数の組(a, b, c)は楕円曲線の判別式・導手に翻訳される
  • スピロ予想はこの翻訳を経た「楕円曲線版のABC予想」であり、両者は本質的に同値
  • フェルマーの最終定理は谷山・志村・ヴェイユ予想を経由したWilesの証明で解決済みだが、ABC予想を経由する漸近的な別ルートも存在する
  • ABC予想については、望月氏によるIUT理論での証明がRIMSの査読付き誌に掲載済みで、望月氏側は証明済みとの立場を取る一方、Scholze氏・Stix氏らは未解決のギャップを指摘しており、数論コミュニティ全体としての合意には至っていない

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