デュアルユース技術と技術者倫理とは?同じ能力が防御にも攻撃にもなる構造を考える
バグを見つけて直す技術と、バグを見つけて突く技術は、同じ技術です。技術そのものに善悪がないのだとしたら、いったい何が分岐点になるのでしょうか。
まず、私たち自身の話から
セキュリティ製品を作る会社にとって、この問いは抽象的な思考実験ではなく、毎日の業務そのものです。 ソフトウェアの脆弱性を見つける技術 ―― バイナリを読み、入力の境界を疑い、設計者が想定しなかった 状態を作り出して観察する能力 ―― は、そのまま二つの方向に使えます。一つは、 見つけた欠陥を開発者に報告し、修正され、世界中の利用者が守られる方向。もう一つは、同じ欠陥を 黙ったまま侵入の道具に仕立て、誰かの資産や人生を壊す方向です。
重要なのは、この二つが「よく似た技術」ではなく、文字どおり同一の技術だという点です。 前者のために身につけた能力を、後者に転用するために追加で習得すべきことは、ほとんどありません。 必要なのは、意思決定だけです。脆弱性診断ツールを作る側の人間として、私たちはこの事実から 目を逸らすことができません。ネットワーク脆弱性診断も YARAによるマルウェア検知ルールも、攻撃者の思考を再現できる人間にしか 設計できないからです。
こうした「同じ能力が構築にも破壊にも使える」性質を、一般にデュアルユース (dual-use、両用)と呼びます。本記事は、この古くて新しい問題を、歴史的な実例と、 東アジアの倫理思想 ―― 道家と儒家 ―― を手がかりに考え直してみる試みです。
デュアルユースは、サイバーに始まった話ではない
デュアルユース問題を「情報技術に固有の新しい悩み」と捉えると、本質を見誤ります。それは 少なくとも産業革命以来、精密機械・化学・航空・生命科学のすべてで繰り返されてきた、 技術文明そのものに埋め込まれた構造です。いくつか、実際に起きた事例を 見ていきます。
工作機械 ―― 「マザーマシン」という究極の汎用性
工作機械は、機械を作るための機械であることから「マザーマシン」と呼ばれます。 旋盤やフライス盤、そして数値制御(NC/CNC)によって高精度な三次元形状を削り出す多軸加工機は、 自動車のエンジン部品も、医療機器のインプラントも、航空機の構造材も作ります。そして同じ機械は、 原理的には兵器の部品も作ります。何を削るかは、加工プログラムと発注書の問題であって、 機械の問題ではありません。
この性質が国際政治の問題として顕在化した代表例が、東芝機械・コングスベルグ事件 (1987年)です。東芝機械(当時の東芝の子会社)とノルウェーのコングスベルグ社が、 1980年代前半にかけて、対共産圏輸出統制委員会(COCOM)の規制対象であった多軸CNC工作機械と その数値制御装置をソビエト連邦へ不正に輸出していたことが、1987年に発覚した事件です。 報道と米国政府の調査によれば、この機械は潜水艦のスクリュープロペラを高精度で加工する用途に 用いられ、ソ連潜水艦の静粛性向上に寄与したとされました。事件は日米関係に深刻な摩擦を生み、 東芝機械の幹部が起訴され、コングスベルグ社にも制裁が科されました。
この事件が示しているのは、「プロペラを静かにする加工精度」と「船舶用プロペラ一般を作る加工精度」が 技術的に区別できないという厳然たる事実です。輸出管理は、機械そのものの性能諸元 (同時制御軸数、位置決め精度など)に線を引くしかありません。しかしその線の向こう側にある用途は、 機械を受け取った側が決めます。
ジェットエンジン ―― 推力に民用も軍用もない
ガスタービン・ジェット推進の技術も同様です。高温高圧下で回り続けるタービンブレードの 単結晶鋳造技術、耐熱コーティング、燃焼器の設計 ―― これらは民間旅客機の燃費と信頼性を 支える中核技術であると同時に、軍用機やミサイルの推進系の中核技術でもあります。 歴史的にも、ジェットエンジンはまず軍事的要請の中で実用化され、その後民間航空を変えました。 流れは双方向です。民生分野で磨かれた素材技術や製造技術が軍事側に流れることもあれば、 その逆もあります。ここでも、「推力を生む」という能力自体は用途に対して中立です。
3Dプリンタ ―― 製造の民主化と、その裏面
積層造形(3Dプリンティング)は、この構造をもっとも劇的な形で可視化した技術かもしれません。 試作のリードタイムを数週間から数時間に短縮し、少量多品種の部品供給を可能にし、個人や 小規模事業者が「ものづくり」に参入する敷居を劇的に下げました。これは疑いなく大きな恩恵です。
同時に、同じ技術の別の側面も繰り返し報じられてきました。2013年、米国のDefense Distributed (コディ・ウィルソン)が、ほぼ全て樹脂で造形された拳銃「Liberator」を発表・試射し、その設計 データを公開しました。データは公開から数日で十万件規模のダウンロードを記録し、米国務省の 命令によりサイトからの削除を余儀なくされています(この記事はあくまで出来事の経緯を記すもので、 設計や製造に関する情報は一切扱いません)。より最近では、ウクライナでの戦争に関する報道の中で、 3Dプリンタが軍事用途の部品供給網に組み込まれている実態が数多く伝えられています。 ドローンのフレームや各種筐体が分散した小規模な「プリントファーム」で製造され、 ボランティアのネットワークが部材供給を担っているという趣旨の報道が、複数の メディアや業界紙から出ています。
ここで注目したいのは、事例の生々しさそのものではなく、時間軸に現れる一貫した傾向です。
| 工作機械 (20世紀) | 国家的な産業基盤と巨額の資本を要する。輸出管理の対象を特定しやすく、規制は(不完全ながら)機能しうる |
|---|---|
| ジェットエンジン (20世紀後半〜) | 依然として巨大な企業・国家プロジェクト規模。ただし素材・製造技術は民生側から流入する |
| 3Dプリンタ (21世紀) | 個人が購入可能な価格帯。設計データはネットワーク上を自由に流通し、物理的な国境での管理がきわめて難しい |
| 脆弱性研究・ソフトウェア (現在) | 資本要件はほぼゼロ。必要なのは知識と時間だけで、成果物は複製コストゼロで拡散する |
強力な能力を手にするための参入障壁は、一貫して下がり続けています。 本記事の後半の議論は、この一点にかかっています。
道家 ―― 庖丁の刃と、「機心」への警戒
技術と人間の関係について、東アジアにはきわめて早い時期から蓄積された思考があります。 なかでも『荘子』には、対照的とも読める二つの技術観が並んでいます。
一つは、「養生主」篇の庖丁解牛の寓話です。料理人の庖丁(ほうてい)が牛を解体する 手さばきはまるで舞踏のようで、それを見た文恵君が技を讃えると、庖丁は自分が関心を寄せているのは 技そのものではなく道(タオ)であり、技はそれを超えたところにある、という趣旨のことを 述べます。彼は最初の三年間は牛の全体しか見えなかったが、やがて目で見るのではなく「神」で 対するようになり、骨と関節のあいだにもともと存在する隙間に刃を通すため、十九年ものあいだ 刃を研ぐ必要がなかった、と語られます。
この寓話が示唆しているのは、卓越した技能とは、対象に力ずくで働きかけることではなく、 対象の自然な条理を読み取り、それに沿って動くことだという理解です。これは技術者にとって 非常に馴染み深い感覚でもあります。よく設計されたシステムを読み解くとき、力任せに壊すのではなく、 構造の「目」に沿って手を入れるとき、抵抗が消える。あの感覚です。
もう一つは、「天地」篇の機心(きしん)の寓話です。子貢が、水汲みの労苦を はねつるべ(桔槹)という道具で省けると老人に勧めたところ、老人はこう応じます ―― 機械を用いる者には 必ず機械にかかわる仕事が生じ、機械にかかわる仕事がある者には必ず機心、 すなわち打算的で仕掛けを弄する心が生じる。機心が胸中にあれば純白なるものが損なわれ、 精神が安定しない、と。原文では「有機械者必有機事、有機事者必有機心」と表現される、 技術批判としてしばしば引かれる一節です。
この二つを並べると、『荘子』は技術を単純に肯定も否定もしていないことが見えてきます。 庖丁の刃は道に沿うことで卓越に達し、はねつるべは人間の心の側を変質させる。 差を生んでいるのは道具の性能ではなく、それを使う人間の内面がどちらを向いているかです。 本記事の関心からすれば、これは二千年以上前に立てられたデュアルユース問題の定式化として読めます。
儒家 ―― 技能ではなく、人を練る
『論語』は、より直接的に「技能を持つ人間をどう育てるか」を論じます。中心にあるのは 仁(じん)と君子(くんし)という概念です。
仁は、しばしば「思いやり」「人間らしさ」「他者への配慮」などと訳されますが、 個別の徳目というより、諸々の徳が現れる根にある人格的な態度と捉えるのが 近いでしょう。君子は、その仁を目指して自己を練り上げている人、という意味での「立派な人」です。 重要なのは、君子が身分ではなく到達目標として語られている点です。
技術者倫理という観点から特に示唆に富むのは、為政篇の「君子不器」(君子は器ならず) という一句です。器 ―― 当時の文脈では特定の用途に供される祭器 ―― は、ただ一つの機能しか持ちません。 君子はそのような単機能の道具であってはならない、という趣旨だと一般に理解されています。 自分の専門性の内側だけで完結し、その外側にある帰結について判断する軸を持たない技術者は、 まさに「器」です。高度な単機能の器であればあるほど、誰かに使われる存在になります。
もう一つは、憲問篇で子路が君子について問うた場面です。孔子は、まず「敬をもって己を修める」と答え、 さらに問われて「己を修めて以て人を安んず」(修己以安人)、 そして「己を修めて以て百姓を安んず」(修己以安百姓)へと答えを展開し、最後のそれは堯・舜でさえ 難しかったと述べます。ここで示されているのは、自己の修養は目的ではなく、他者を安んじる ことに接続してはじめて意味を持つという構図です。
儒家がここで扱っているのは、技術の性能の話ではありません。技能を持つ主体の側を鍛える という話です。そしてこれこそ、デュアルユース問題において唯一まともに動かせる変数かもしれない、 というのが本記事の見立てです。
西洋側の並走 ―― フロネーシスとDURC
同種の直観は、西洋の伝統にも見出せます。アリストテレスの徳倫理学は、 ものを作る知(テクネー)と、状況の中で何が善いかを判断する知(フロネーシス / 実践知)を 区別しました。優れた技術(テクネー)を持つことと、それをいつ・何のために用いるかを正しく判断できること (フロネーシス)は、別の能力である ―― この区別は、そのままデュアルユース問題の骨格になっています。
現代の制度としては、生命科学分野のDURC(Dual Use Research of Concern、 懸念されるデュアルユース研究)という枠組みが、この難問を制度化しようとした 実際の試みとして参照に値します。米国政府の定義では、DURCとは、現在の理解に照らして、 公衆衛生・安全、農作物、動物、環境、国家安全保障などに対する重大な脅威となる形で 直接転用されうる知識・情報・製品・技術をもたらすと合理的に予測される 生命科学研究を指します。2024年5月には、DURCと「パンデミック能力を高めた病原体(PEPP)」の 監督に関する新たな米国政府方針が公表され、2025年5月からの発効が定められました (その後さらに見直しの動きがあり、制度は流動的です)。
DURCの枠組みが興味深いのは、「危険な研究を禁じる」ではなく「研究の便益を保ちながら リスクを最小化する」という、両立を前提とした設計思想を採っている点です。これは デュアルユース問題の本質を正直に認めた立て付けだと言えます。危険性だけを取り除くことは できない、という前提から出発しているからです。
本記事の立場 ―― 道徳的な価値は「向き」に宿る
ここまでの材料を踏まえて、本記事が採る立場を明示します。これは一つの解釈であって、 証明された命題ではありません。
技術それ自体には道徳的な価値がなく、道徳的な価値はそれを用いる者の「向き」に宿る ―― 本記事はそう考えます。より具体的には、次の二つの方向のどちらを向いているかが決定的です。
| 築く向き | ものを作り、暮らしを豊かにし、人を守る。事業として成り立たせ、雇用と技能を継承する。防御であっても、それが誰かの生活を守るために設計されているなら、この向きに属する |
|---|---|
| 奪う向き | 征服し、略奪し、欺く。他者の資産・安全・自律を、その同意なしに自分の利益へ変換する。手段が合法か違法かとは別に、意図の向きとしてこちらに属するものがある |
同じ能力が両方に使える以上、技術の側で分岐点を作ることはできません。CNC加工機に 「兵器部品は削らない」という機能を実装することはできず、脆弱性研究の能力から 「攻撃に使える部分」だけを除去することもできません。したがって決定的な変数は、 技術の性質ではなく、それを扱う個人と組織の倫理的な形成の側に移ります。 これが、儒家が「技を磨く」と同じ重みで「己を修める」を語ったことの、現代的な意味だと考えます。
なお、この立場には反論がありえます。たとえば「技術中立説は、設計者の責任を過小評価する イデオロギーだ」という批判は、技術哲学の中で繰り返し提起されてきた有力な論点です (ある技術は、その設計自体に特定の使われ方を誘導する性質を埋め込んでいる、という議論)。 本記事はこの批判に十分には答えていません。「技術は完全に中立だ」ではなく、 「技術の中立性が高い領域ほど、人間側の形成が決定的になる」という 限定的な主張として読んでいただくのが正確です。
抑止の非対称化 ―― この節は推論であり、定説ではありません
2022年以降のロシア・ウクライナ戦争は、防衛技術に関する公開の論説において、一つの主題を 前面に押し出しました。安価で新しい技術が、高価で成熟した技術体系に対して 非対称な費用交換比を突きつけうる、という主題です。
公開報道と分析でしばしば引かれるのは、次のような概算です ―― 数百ドルから千ドル程度で 製造される小型のFPVドローンが、数百万ドル規模の装甲車両を無力化しうる。英王立防衛安全保障研究所 (RUSI)による分析として報じられたところでは、戦術ドローンが損傷・破壊された装備のかなりの 割合を占めるとされています。こうした数字の正確さには議論の余地がありますが、 桁のオーダーとして数十倍から数百倍の費用差があるという指摘自体は、 複数の独立した論者から出ています。
この論点が戦略論的に興味深いのは、費用の非対称性が「長い準備期間を要する優位」を 相対的に減価させうるという点です。高度に訓練された搭乗員、長期の調達計画を要する 高価なプラットフォーム、大規模な通常戦力 ―― これらは蓄積に何十年もかかる資産です。 一方、安価な量産品は、産業基盤さえあれば数か月単位で立ち上がりうる。そのため、 従来は明白な優劣があった対抗関係が、より流動的になる可能性がある、という議論です。
ただし、この議論には強い留保が必要です。第一に、「安価なものが高価なものに 勝つ」という単純な図式は、実際の戦場では成り立たないことが多く、対抗手段(電子戦、防護、 運用上の対応)との継続的な相互作用の中にあります。第二に、費用交換比の有利さは、 攻撃側にも防御側にも等しく働きます。非対称性は「弱者の均等化装置」としても、 「攻撃の敷居を下げる装置」としても機能しうるのであって、後者は前者と同じくらい重要な帰結です。 第三に、そもそも抑止が成立するかどうかは技術の費用構造だけでは決まらず、 政治的な意思、同盟関係、認知の問題を含む、はるかに複雑な現象です。本記事は、 この論点の妥当性を主張するものではなく、それが広く議論されているという事実を 起点にしています。
そして、本記事が引き出したい含意は、軍事的なものではありません。倫理的なものです。 この議論が正しいとすれば、それは強力な能力への到達コストが劇的に下がったことの帰結です。 そしてそのコスト低下は、先ほどの表に示したとおり、工作機械から3Dプリンタへ、 そしてソフトウェアへと一貫して続いてきた流れの延長線上にあります。
能力への参入障壁が下がるほど、その能力に到達できる個人と組織の倫理的形成が、 より決定的になります。 障壁が高かった時代には、能力を持てるのは大規模な組織だけであり、 組織には内部統制と説明責任の仕組みがありました ―― 不完全ながら、ある程度は機能しました。 障壁が消えると、その層が消えます。残るのは、能力を持つ個々の人間が何を選ぶかだけです。
なぜ法と輸出管理だけでは足りないのか
ここで、「だから国際法と輸出管理を強化すればよい」という応答がありえます。 本記事は、それが必要だという点には同意します。ただしそれだけでは原理的に足りない、 とも考えます。理由は単純で、規制対象を定義できないからです。
この難しさを、私たち自身の業界が身をもって経験しています。2013年、 ワッセナー・アレンジメント(通常兵器および関連汎用品・技術の輸出管理に関する 国際的な枠組み)は、「侵入ソフトウェア(intrusion software)」およびIPネットワーク監視システムに 関する規制項目を追加しました。狙いは、権威主義国家に売られる商用スパイウェアの流通を 抑えることにあったとされます。目的そのものは、多くの人が支持できるものでしょう。
ところが、2015年5月に米商務省産業安全保障局(BIS)が実装のための規則案を公示すると、 セキュリティ業界から強い反発が起きました。規則案に対しては300件近い意見が寄せられ、 その多くが、正当な脆弱性研究・ペネトレーションテスト・インシデント対応までもが規制に 巻き込まれると指摘するものでした。結果として米国は2016年から2017年にかけて ワッセナーの条文を再交渉し、より限定的で、正当な研究活動に対してより許容的な形へと 修正されることになりました。
この経緯が示しているのは、「攻撃用の技術」と「防御のための研究」を条文の言葉で 切り分けようとすると、ほぼ必ず後者を巻き込むという事実です。これは規制当局の 能力不足ではありません。切り分けるべき対象が、技術的に同一だからです。 東芝機械事件の工作機械で起きたことと、同じ構造がここで繰り返されています。
加えて、汎用技術は「発明されなかったこと」にできません。3Dプリンタも、 脆弱性研究の方法論も、小型無人機のプラットフォームも、すでに世界中に広く行き渡っています。 輸出管理は物理的な国境を越える移転を管理する仕組みですが、知識と設計データには 国境がありません。制度は依然として重要ですが、それは境界条件であって、解ではない ―― というのが本記事の見方です。解に相当する部分は、制度の外側、つまり人間の側に残されています。
そして、誠実さについて
最後に、本記事がもっとも強く主張したい点を述べます。 強力なデュアルユース技術を扱うことは、いかなる場合も欺瞞や詐欺を伴ってはならない。 これは道徳的な飾りではなく、機能的な要請だと考えます。
理由はこうです。デュアルユース技術は、それ自体としては「誤用されれば危険なもの」に すぎません。社会は、危険なものとともに生きる方法をいくつも持っています ―― 免許、検査、 保険、監督、事故調査。これらはすべて、能力と意図に関する情報が正直に開示されている ことを前提に成り立っています。何がどれだけできるのか、誰が何のために使うのかが、 おおむね正しく申告されている限り、社会は対応を設計できます。
欺瞞は、この前提そのものを破壊します。 意図を偽り、真の用途を隠し、 規制当局や顧客や公衆に対して能力を過大あるいは過小に申告する ―― この瞬間に、 「誤用されれば危険な技術」は「対応不能な脅威」へと変質します。危険の大きさが変わるのではなく、 社会が反応する能力が奪われるのです。東芝機械事件で問題視されたのが、 機械の性能そのものと同じくらい、虚偽の輸出許可申請という手続き上の欺瞞で あったことは、示唆的です。技術が国境を越えたことよりも、それが偽装の下で越えたことが、 制度の反応能力を奪いました。
『論語』学而篇の「巧言令色、鮮矣仁」(巧言令色、鮮なし仁)という一句は、 巧みな言葉と取り繕った表情に仁はまれである、という趣旨だと理解されています。 これを技術者倫理に引き寄せて読むなら、説明の巧みさは誠実さの証拠ではない、 ということになるでしょう。何ができて何ができないかを正確に述べる能力と、 それを都合よく見せる能力は、やはり別のものです。
セキュリティ業界には、この原則が制度として結晶した実例があります。 協調的な脆弱性開示(Coordinated Vulnerability Disclosure)の慣行です。 脆弱性を見つけた研究者は、まず開発者に非公開で通知し、修正のための猶予期間を置き、 修正後に内容を公開する ―― この一連の手順は、「危険な知識を隠す」ためのものではありません。 むしろ逆で、危険な知識の存在を、正しい順序で、正直に開示するための手続きです。 研究者は自分が何を見つけたかを偽らず、ベンダーは欠陥の存在を否認せず、 最終的に利用者は何が危険だったのかを知る。デュアルユース能力を持つ人間たちが、 欺瞞を用いないという一点を共有することで、社会全体が対応可能になる ―― これは、抽象的な倫理論ではなく、実際に動いている仕組みです。完璧ではありませんし、 破られることもあります。それでも、デュアルユース問題に対して人類が持っている 数少ない実効的な答えの一つであることは間違いないと考えます。
技を磨くことと、己を修めること。庖丁の刃と、機心への警戒。 この二つを同じ重さで扱うべきだという主張は、二千年以上前から繰り返されてきました。 参入障壁が消えていく時代において、それは懐古趣味ではなく、 おそらくもっとも現実的な工学的要請です。
まとめ
- 脆弱性研究は、修正のための発見と侵入のための発見が文字どおり同一の技術であるという、デュアルユース問題のもっとも純粋な例である
- 工作機械(東芝機械・コングスベルグ事件、1987年)、ジェットエンジン、3Dプリンタ(Liberator、2013年)といった実例は、この構造がサイバー固有のものではないことを示している
- これらの事例を時系列で並べると、強力な能力への参入障壁が一貫して低下し続けているという傾向が読み取れる
- 『荘子』の庖丁解牛と機心の寓話は、差を生むのが道具ではなく用いる者の内面であることを示唆する
- 『論語』の仁・君子・「君子不器」・「修己以安人」は、技能ではなく技能を持つ主体を鍛えるという発想を提示する
- 本記事の立場として、技術の道徳的価値は「築く向き」と「奪う向き」のどちらを向いているかに宿ると考える(ただしこれは一つの解釈であり、技術中立説への批判にも一定の正当性がある)
- 抑止の非対称化に関する議論は、公開論説で広く扱われている論点の整理であって、確立した軍事ドクトリンでも定説でもない
- 輸出管理は必要だが原理的に不十分である ―― ワッセナー侵入ソフトウェア規制をめぐる2015年の混乱が、攻撃と防御を条文で切り分ける困難を実証した
- 欺瞞は、デュアルユース技術を「誤用されれば危険なもの」から「対応不能な脅威」へと変質させる。誠実な開示こそが社会の反応能力を支えている
- 協調的な脆弱性開示は、その原則が実際に機能している数少ない制度的実例である